「25歳、社長、世界一周」から「28歳、全財産、1900円」を経験した中村ひろきのプロフィール

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中村ひろき

秘境をめぐる治療家

1986年1月名古屋市生まれ。

高卒後、地元の名古屋鍼灸学校へ入学。

21歳。鍼灸師の国家資格取得。沖縄移住。

25歳。名古屋に帰還して4ヶ月の世界一周。

27歳。燃え尽きて全財産が1900円の無職に。

28歳。再就職。副業収入が給料を上回る。

29歳。不動産投資で最初の物件を購入。

30歳。ブログを始める。←イマココ

 

なんだかすごく波のある人生でしたが、10代後半からずっと大切にしてきたのは「好きも嫌いも我慢しない」というスタイルでした。

そんな生き方を見守ってくれた両親に感謝するとともに、これまでの人生をザザッと振り返ってみたいと思います。

 「旅」という最高の生きがいをみつけた学生時代

副会長&野球部主将。才色兼備のクズ小学生。

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わりと優秀だった小学校時代。

「学級委員」「副会長」「足速い」など、モテそうな条件をサラッとかき集めたリア充小学生でした。

また、入学時に買ってもらった学習机の世界地図マットの影響をまともに受け、早くも海外の魅力にとりつかれます。このとき同級生に「スーファミやめて中国語勉強しようぜ!」と発言してドン引きされました。

 

スポーツでは野球部で主将を務め、1番ピッチャーの座をゲット。絵に描いたような才色兼備でしたが、副会長と主将を任されたプレッシャーで給食が食えなくなったり、司会を務める全校集会の当日に家から出られなくなったり、クソ弱いメンタルのせいで、朝礼で賞状一枚もらったことのないクズでした。

フツー全校集会の司会を任せられたら体調悪くても行くんでしょうが、その当時から「嫌なことは我慢しない」がモットーだったぼくは「自分がいなくても代わりがいるから大丈夫☆」とアッサリ学校へ休みの連絡を入れたんですよ。

ま、そしたら担任が自宅に上がり込んできて無理やり学校へ連行されたよね。。。

 

初めて親の意向に逆らった中学時代

野球部が存在しなかった地元の中学校では、ハンドボール部へ。

またしても主将を務めましたが、クソ弱かったために不完全燃焼のまま引退。このままハンドボール人生を終えるのが嫌で、愛知県の公立で一番ハンドが強かった高校へ進むために猛勉強をしました。

この時、親に「強い高校で控え選手になるより、弱い高校でレギュラーの方がいいんじゃない?」と言われましたが、ぼくには「強い高校でレギュラーになる!」ことしか頭にありませんでした。

今思えば、ここで強い高校への進学を決めたことが、初めて親の意向に逆らって自分の決めた道を進んだ瞬間だったかもしれません。

でも、結果的に志望校に合格して、高校2年冬にレギュラー入りを果たすことができました。これには親も大喜びでした。

きっと子供って、親に反対して我を貫いて結果が出た時、一気に自立心が芽生えるんでしょう。ぼくはこの成功を境に、親を困らせることが大好物になってしまいます。

 

親友との出会いで価値観が激変した高校時代 

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念願叶って入部したハンドボール部は、2年連続全国出場中の強豪校でした。

レギュラーで出場した2年生の新人選抜県大会では、全国を懸けた試合で持ち前の豆腐メンタルを発揮し、何もできないまま前半を終えたところで「おれ抜けるわ」と自ら控えベンチに消えました。

小学校時代からのメンタルの弱さは、未だ健在だったんですよ。これすごくコンプレックスでした。天然パーマで死ぬほどいじられたことを忘れるくらい、自分の中の巨大な不安要素だった。

いつも試合が終わると「試合お疲れさまね。」とメールをくれた母親から、夏のインターハイ予選で敗れたときだけ「3年間お疲れさまね。」というメールが届いたとき、中高6年間のハンドボール人生が完全に終わったことを一気に実感して、その場で泣き崩れました。

最後の大会は愛知県3位という結果に終わりました。

 

 そして、高3の夏休み直前。

多くの同級生が大学受験に向けて猛勉強を始めましたが、ぼくは鍼灸専門学校への進路を決めていたので、それほど必死に勉強する必要はありませんでした。

これまでの高校生活は土日もすべて部活に費やしていたので、思いっきり遊ぶことなどできませんでした。そこで、小学校から眠り続けていた旅したい欲が爆発したのです。とにかく何か面白いことがしたかった。

そこで、ぼくは教室内を見渡して、受験とは無縁そうな松本くんに声をかけました。彼は、留年生かつ金髪という、異端児でありながらもモテまくる、すごくズルい人でした。

松本くんに「夏休みにチャリで沖縄行かない?」と声をかけた時、まるでコンビニへ行くかのような軽いノリで「うんいいよ。」と二つ返事で答えてくれたことは、今でも忘れられません。

今までは、チャリで学区外に飛び出すことすら怪訝そうな顔をする友達しかいませんでした。きっと旅に出ることはヘンなんだと思い込み、その欲求は心の奥底に押し込めていました。

この時の松本君の二つ返事を聞いた時、これまでのモヤモヤした気持ちが吹き飛びました。この出会いをキッカケに、ぼくは「自分のやりたいことや大切にしている価値観はどんどんおおっぴらにすればいいんだ」という、確固たる自信を身につけていきます。

そう、今でも生き方の軸となっている「好きも嫌いも我慢しないライフスタイル」は、他の誰でもなく、松本君との出会いによって誕生したものなんです。

 

高校生男子の二人が名古屋から沖縄を目指した1ヶ月間のチャリ旅は、今までの自分の常識が音を立てて崩れ落ちることの連続でした。

安宿で知り合う人達は、いわゆる大学進学や就職などのレールに乗らず、心から旅を愛している人ばかり。

先生や大人達の言うことに従順でいることが真面目じゃないんだ!

自分の心に潜む純粋な好奇心に素直でいることこそ真面目なんだ!

という価値観に確信を持つことができた、高校3年生の夏休み。もし他の同級生達のように塾でひたすら受験勉強に打ち込んでいたら、用意されたレールの上を進むだけだったかもしれません。それほど人生観が激変した1ヶ月でした。

 

ちなみに、この旅に出る前ぼくの親は猛反対でした。「計画が無謀だ」の一点張り。勝手に準備を進めて出発直前に旅立ちを告げる、という浅はかな作戦は大失敗でした。

しまいには父親に「宿泊先など全日程スケジュールを書け」と言われたので、形だけの大嘘スケジュールを提出して、強引に出発してしまいました。

結果的に、無事に帰って来たら「すごい経験をしたね」と褒めてくれました。結局親は「無事に帰宅する」という目的さえ果たされれば、過程なんてどーでもいい生き物なんですよね。

親に反対されて進路に困っている人は、とにかく自分の道を突き進んで、最後に親が欲しがっている結果だけを忘れずに提示する方法がオススメっす!

 

大切なことの9割を学んだ指圧の武者修行

1日8時間指圧耐久レースの日々

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高卒後、鍼灸マッサージ師の国家資格を取るべく専門学校へ進みました。

心のどこかで「旅しながらできる仕事に就きたい」と思っていたので、一般的なサラリーマンになるビジョンは皆無でした。

専門学校に入った直後、四代続く老舗の指圧治療院の先生に声をかけていただき、時給300円の修行時代に突入しました。

最初の1年間で指紋は消え、水道はひねれず、親指の感覚を失いました。お盆と正月以外はひたすら指圧に明け暮れる日々。知人の結婚式や葬式に出席することも許されませんでした。

クソでかい揚げ餃子をひとり50個ずつ食わされたり、ヤクザの患者さんにカカト落としを喰らったり、とにかく心身ともにムチャクチャ鍛えられました。

この荒療治のおかげで学生時代の豆腐メンタルはすっかり消え失せましたが、一方で、常に心の中には葛藤がありました。

 

この治療院で修行すれば、一流の治療家になれることは間違いない。

でも、ここにいたら、いつまで経っても旅に出られないかもしれない。

 

「この修行生活を続けた先には何が待っているだろうか?」

「この修行生活はぼくを旅へ連れてってくれるだろうか?」

 

そんなことを考え始めたら、あっという間に修行に集中できなくなり、いつしかぼくは治療院を卒業するタイミングを常に見計らうようになりました。

 

頭の中は「沖縄」の2文字のみ

代々の兄弟子は13〜15年修行して独立開業という流れが通例だったこの指圧治療院。途中で他の治療院に浮気することも、ここで習得した技を外で試すことも、断じて許さない文化でした。

でも、ぼくはやっぱり旅がしたい。沖縄に行きたい。

高校3年の夏に松本くんとチャリで旅をしてから、沖縄に移住したい一心で鍼灸師を目指してきたのです。その目的を我慢することはできませんでした。

 

この治療院で修行することだけが、一流の治療家になるための道じゃない。

一流の治療家になる「手段」は他にもたくさんある!

でも、沖縄に移住する「目的」に代わるものはない!

「手段」は曲げられる。でも、「目的」は曲げられない!!

その思いが最高潮になったとき、院長先生に沖縄へ渡りたい気持ちを告白しました。

歴史をぶち破って少々申し訳なかったですが、先生にボロクソ言われて泣かされるなどの攻防の末、この治療院を異例の3年間で辞めることになりました。専門学校を卒業後、国家試験に合格すると同時に、バイクで日本一周へ旅立ちました。ゴールはいうまでもなく沖縄。21歳です。

 

このとき、ぼくは「頑固」と「信念」の違いを知りました。

方法や手段を曲げない人は頑固な人。

夢や目的を曲げない人は信念のある人。 

ぼくは自分が後者であることを信じて、周りから「沖縄に逃げた」「ツライから辞めた」と後ろ指をさされようとも、気にせずに我が道を行くことができたのです。

 

 夢だった沖縄移住をかなえた21歳 

カオスな安宿に10ヶ月住んでみた

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バイクでの日本一周の果てに沖縄の地に到達した時、全財産は10万ちょっとでした。親は高3の旅以来、あまり心配せず見守ってくれるようになりました。

都会好きのぼくは、那覇のスタバまで徒歩30秒の安宿に滞在していました。6畳のワンルームに3段ベッド2台というカオスな環境で、仕事から帰ると隣で毎晩違う人が寝てるという環境はなかなか刺激的でした。

「昼間は仕事して、夜は同部屋の人と飲みに行く」という生活を10ヶ月間続けました。収入は少なかったけど、500円あれば定食が食べられて、いつでも綺麗な海がすぐそこにある沖縄。まるで竜宮城に来たような感覚でした。

 

那覇に「日本一ゆるい治療院」が誕生する

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もともと人見知りのぼくにとってストレスも多かった安宿10ヶ月で飛び出して、当時付き合っていた彼女との人生初同棲生活がスタートしました。

休みの日にフラッと日帰りで離島に行ったり、疲れたらビーチでたそがれたり、沖縄ライフを超満喫していました。でも、お互い自分の生活に精一杯ですれ違いが多く、お金のことで喧嘩することが多々ありました。

「世の中カネかよ・・・」

と痛感したのはこの時期です。

沖縄ではいくつかの鍼灸院や治療院を転々としました。そして、彼女と別れて同棲を解消。賃貸情報サイトでたまたま見つけた赤瓦の古民家に住まいを移し、自宅兼治療院を開きました。人生初の独立。23歳のときです。

「さぁ、一世一代の大勝負だぞ!!」

なーんて気合が入ったわけではありませんでした。上の看板を見てわかる通り、完全週休二日制で、営業時間は14時から。午前中はビーチで泳ぎ、夜は予約がなければ北谷の宮城海岸までバイクを走らせて夕陽を観に行きました。

こんなフザケた治療院だったのに、今でも当時の患者さん達が仲良くしてくださることは、本当にありがたいことです。

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▲「おもろそうだから」という理由で即決してしまった家賃5万円の赤瓦の物件。車も通れない超がつく路地裏にあり、飛び込みでくる患者さんなんて誰もいなかった。広告費もかけられなかったので、毎日ブログで発信し続けた。

 

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▲四畳半の治療室。改装費はゼロ円。とにかくベッド1台置いただけの超シンプルな治療院だった。

 

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▲和室のタタミで寝っ転がると、窓の外はこの景色。ずっと憧れていた沖縄のイメージそのままの景色がそこにありました。

 

 沖縄本島一周ヒッチハイクを最後に名古屋へ戻る

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▲人生初ナンパを試みて、声をかけた女の子に写真を撮ってもらう。しかし、その子の母親らしき人物が鬼の形相でこちらをにらみつけていることに気づき、そっと目線を下に落としてる図。

 

ゆるゆるな治療院を開業して約半年。

生活できないわけじゃないけど、学びや成長が少ない暮らしに危機感を覚えました。

「このまま薄っぺらい治療家になったらどうしよう?」

という恐怖感がよぎるようになりました。

これは、名古屋の指圧治療院でクソみたいに鍛えられまくった経験があったからかもしれません。

「また誰かにキツく叱ってもらえる環境じゃなければ、自分は成長できないんじゃないか?」という想いが日に日に強くなったのです。

このころ松本くんは、バイクで事故ったり、飲酒運転で免許を剥奪されたり、波乱万丈ライフを送りながら職場を転々としていました。

同級生たちは一流企業に就職してガンガン稼いでいるようでしたが、二人は一切不安に思うことはありませんでした。

同級生たちを見下すわけでもなく、嫉妬するわけでもなく、ただただ「二人の今」を謳歌していました。好きなことも、嫌いなことも、我慢せずにやり切った先にある未来こそが最も自分らしい未来であることは、二人とも明確に分かってのです。

 

お盆などの長期休暇に名古屋へ帰ったときも、大半の時間を松本くんと過ごしました。

日雇いバイト面接へ飲酒状態で受けに行ったり、車の屋根にしがみついて死と隣り合わせのドライブをしたり、公共の温泉にバブを投入したり、なかなか頭の悪い遊びをしてだらしなく笑っていました。

 

そして、こんなだらしない遊びが転機を生みます。

「ダーツの旅世界地図バージョンやろうぜ!」

23歳のまあまあいい年の二人が、デカい声ですごいベタな企画を思いついたのです。

そしてダーツの矢の刺さった先が・・・

 

 

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フィンランド。

 

サンタとサウナとキシリトールの国。

 

ダーツの刺さった正確な場所は「タイバルコスキ」という見知らぬ都市でした。

 

日本でいうところの「宇都宮」くらいのノリでしょうか。

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タイバルコスキの場所:Google マップ

 

というわけで、フィンランドに行くことになっちゃったんです。

それから二人で行き方をいろいろ調べているうちに、どうやら世界一周航空券の方が断然安い、ということがわかりました。

「それなら世界一周しちゃえばよくね?」

と、話はトントン拍子に進みました。

ゆるすぎる小さな島での生活に危機感を覚えていたこともあり、ここで沖縄生活に終止符を打つことにしました。

「名古屋で集中して1年間でお金を貯めて、世界一周するぞぉおおおお!!!!」

とテンションが上がって、24歳の時に名古屋へ帰還したのです。

このとき、たくさんの友達に「よくそんな鮮やかに方向転換できるよね。」というようなことを言われました。

確かに、今の生活に区切りをつけられず、なかなか次に進めないことってありますよね。でも、今の生活以上のワクワクを見つけると、いてもたってもいられなくなっちゃうんですよね・・・。

で、大好きな沖縄を離れる記念に、沖縄本島をヒッチハイクで一周しました。2泊3日かけて計32台の車にお世話になりました。

人見知りは治らなかったけどな。

 

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▲ヒッチハイクで沖縄本島最南端の喜屋武岬(きゃんみさき)に到着。ここは高校3年の夏休みに松本くんと過ごした思い出深い場所でもあった。

 

親友との約束を果たすために戻った名古屋の壮絶な1年 

決死のカミングアウト大作戦

名古屋に帰還してからは、1年後の世界一周に向けて、お金のためだけに働くことに決めていました。そのために、なるべく給料の高い、介護系の社団法人が経営する治療院に就職しました。世界一周のことはモチロン内緒でした。

なかなかいい職場だったのですが、半年ほど経った頃、タイミングを見計らって社団法人のオーナーに白状しました。

「入社動機は世界一周資金を貯めるためでした。1年で辞めます。ごめんなさい。」 

すると予想外の答えが返ってきました。

 

「そうか。じゃあ、治療院だけ切り離して会社を作って社長をやれ。オマエがいなくても回るシステムを作って、世界一周行ってこい。」

 

 

おれが社長・・・?

 

 

 

(なにそれカッケェじゃん・・・)

 

 

 

「押忍!!!!!」

 

 

こうして、ぼくは桃鉄のごとく一瞬で社長に昇格しました。

ぼくが嬉しかったのは「日本に帰国した後も職場が用意されている」ということではありませんでした。

 「社長という身分で世界一周ができる」という、いかにもモテそうな肩書きにどっぷり酔ってしまったのです。

 

代表取締役の肩書きに酔いしれる

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▲友達が開いてくれた世界一周直前の壮行会。自作のTシャツを作ってもらったサプライズパーティーはただただ恥ずかしかった。 

ここから華々しいストーリーが始まるかと思いましたが、「自分がいなくても会社が回るシステム」を数ヶ月で作ることは想像を絶するほど大変でした。

決められた仕事をこなすだけの従業員がどれほどラクか、このとき身に染みて感じました。

早朝から晩までみっちり働いて、夜は週4ペースでオーナーに連れられて高級クラブで朝5時まで飲み歩く生活。

肌は荒れ、意識はもうろうとし、体重は人生マックスの67キロ。学生時代の指圧治療院での修行がクソみたいに感じました。

「このオーナー、世界一周行く前におれを殺そうとしてね?」と本気で思いました。

 

オーナーから与えられた仕事は、会社をスムーズに回すことだけではありませんでした。

120人規模の社員を抱えた社団法人全体の忘年会の企画と総合司会、訪問看護ステーションの立ち上げ、休日の接待ゴルフなど、華々しい社長職のイメージとはかけ離れた仕事ばかりでした。完全にオーナーの犬と化していました。

 

社長になったぼくは完全に調子に乗り、世界一周資金を貯めるという大目的を失いかけました。車も、家賃も、ケータイも会社の経費で落としていたにも関わらず、1年間で貯まった資金はたったの100万ちょっとでした。

 

世界一周へ出発する直前なんて、普通ワクワクしかしないはずですよね。

でも、当時のぼくのブログからは、その過労っぷりが現れています。

 

昨日はヘルパー2級講座の最終日だった。

また講義中に寝てて怒られた。

そのあと、司会を任されている講演会へ直行したかったが、あいにく「スーツに登山靴」という間違った組み合わせで来ちゃったから、途中で革靴を買って、丸の内の貸ホールへ。

そんで講演会の司会を無事終えて、

打ち上げでオーナーや幹部と四次会まで飲んで、

会社に帰ったのが朝4時半。そのまま会社で爆睡。

んで、今朝は朝7時に起きて仕事場へ直行。

そいで夕方に仕事が終わって、忘年会の打ち合わせ。

(おれ社団法人全体の忘年会の幹事長なんだ)

その幹事達との打ち合わせが終わって、

今ようやくブログを書いているんだけど、

今からオーナーに呼ばれて飲みに行く事になった。

「ヒトは1日8時間睡眠が必要」という、

長い年月をかけてすり込まれた常識を打ち破りたい。

あー、早く旅行の準備しなかんなぁ。

アフリカ行くには、黄熱の予防接種が必要なんだよなぁ。

えーと、ほんでルートはどうしよう。

引用:「25歳、社長、世界一周。」より/出発28日前の記事。

 全然ワクワクしてねぇなおれ。

 

松本くんBMWを衝動買いするの巻

そろそろ航空券を予約しようか、という時期にさしかかったころ、松本くんから有り金をはたいてBMWを購入したとの一報が入りました。

ぼくも松本くんも我慢をしないで生きることが信条ですから仕方がありません。

結局ひとりで世界一周をすることになった出発直前、松本くんがビーエムに乗って颯爽と自宅に現れ、小野まゆみの写真集をプレゼントしてくれたことは一生の思い出です。

「日本人女性の素晴らしさを海外に広めてきてね!」

と言い残して、彼はまたビーエムで去って行きました。

結果的に、松本くんは親と銀行から借金をして、約束の地フィンランドに突如現れました。ダーツを投げてから1年後に、二人で目的地のタイバルコスキっぽい所へ到達できたことは最高の思い出です。

 

「25歳、社長、世界一周。」

社員とスカイプで会議する俺カッケー !

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社長という肩書きを背負って海外に飛び出したとき、ぼくは初めて「世界中のどこにいても仕事が成立している感覚」を体験しました。

「場所の制限が外れるってスゲエ!!」

とひたすら感激しました。

一方で、時々届くオーナーからのメールにビクビクしたり、社員とスカイプで会議をするために時間を微調整することは、なかなか精神的なストレスでした。

時間と場所にはしばられたくないけど、かといって雇ったり雇われたりすることは不向きだな、という自分の性質に気づけたのは大きな収穫でした。

 

南アフリカのヨハネスブルグで死にかける

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世界最恐の凶悪都市と名高いヨハネスブルグで日本人宿に滞在してた時、ルームメイトと外出中に黒人グループとトラブルになりました。
ブチ切れした黒人が銃をチラつかせてきた時、ぼくは死を覚悟しました。

そのときぼくはどうしていたか。興奮するわけでもなく、足が震えるわけでもなく、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていました。

まるで、目の前で上映されている映画を眺めているように。

あの時そのまま銃で撃たれていたら、どんなにあっけない一生だったでしょうか。

でも、そんな一生でもいいかと思えるくらい、そのときは冷静だったんですよね。ずっと夢だった世界一周の旅が実現したから、死んでもいいほど幸せだった。

そう、ぼくが20代で一番幸せだったことって、死んでもいいと思えたことなんですよ。

だから、ぼくにとって最良の人生は、常に死んでもいいと思えるマインドを持ち続けること。今死んでもいいと思えないということは、今死んだらこの世に後悔があるということですから。

参考記事:ぼくの20代最大の成功は「死んでもいい」と思えたことだった。

 

1ミリも直らなかった人見知り

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旅の途中、だんだん日本人宿に居るのが辛くなってきて、一人で気楽にいられる外国人宿で泊まるようになりました。

日本人宿で必ず行われる旅人同士の密な交流が、人見知りのぼくにはなかなかツラかったのです。

そこで、ぼくは人見知りである自分を全面的に受け入れ、徹底的に苦手なことを我慢しない道を選ぶことにしました。

「世界一周で治らない人見知りなんて不治の病としか思えない」と開き直った瞬間、いかに無理に治そうとしていたことがストレスになっていたか、思い知らされました。

この旅は、ぼくが生涯にわたって人見知りを治さないことに決めた大きな節目になりました。人見知りを無理に治す方法を考えるより、それを「個性」に変える工夫を考えている時間の方が、ずっとワクワクすることを発見しました。

このことが、好きなことだけでなく、苦手なことも我慢しなくていいんだと思えるようになったキッカケになったのです。

 

帰国直後に失職して暗黒時代を迎える

眠い眠い病に冒される

帰国後は、オーナーに恩返しすべく社長職に全力を注ぐはずでした。でも、思うように体が動きませんでした。そう、重度の燃え尽き症候群です。

人見知りよりも、こっちの方がよっぽど不治の病だったのです。

仕事で大きなミスを連発するだけでなく、オーナーを助手席に乗せた車を運転している時、信号待ちで寝てしまう始末。

いくら集中しようとしても、もう何も手につきませんでした。

結局、オーナーのやり方と合わなかったこともあり、社員と一緒に会社から逃げるように退散しました。

世界一周に行かせてもらった恩は返さなければいけませんでしたが、ただただオーナーの犬でしかない環境は長続きしませんでした。

辞めるときはムチャクチャ揉めましたが、我慢しない生き方」が信条のぼくにとって、オーナーに下僕と呼ばれても社長をやり続ける理由はどこにもありませんでした。

 

「28歳、全財産、1900円。」

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お金も肩書きも一瞬で失ったぼくは、最後の給料だった37万円を握りしめて、無職のまま引っ越すことにしました。

会社から寝るためだけに帰っていた家を見たくなくなり、とにかく環境を変えたくなったのです。

都会好きのぼくは、名古屋駅徒歩圏に住むことに決め、最初に見学した家賃7万円のワンルームで即決しました。

まず、この段階で「フツー次の職場決まってから引っ越すだろ!?」と父親に激怒されました。

そんなことはお構いなしでしたが、ミニミニの美人な店員さんに契約金の見積もりを手渡された時、早くも父親の言葉が何度もこだましました。

全財産の37万円に対して、契約時費用の合計は39万円だったのです。

当時ぼくは祖父母の遺したボロ家で一人暮らし中だったので、古いタンスや引き出しをひっかきまわせば2万くらい出てくると思い、必死に現金の捜索を開始しました。

すると、古い引き出しの奥の方からくしゃくしゃになった茶封筒を発見しました。すかさず振ると、チャリチャリ音がするではありませんか。

 

 

我を忘れて茶封筒をひっくり返すと

 

 

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亡き祖父の理解不能なコレクションが明らかになりました。

 

 

結局、母親にこっそり2万円借りることに成功し、身の丈に合わない都会暮らしがスタートしました。

治療技術を学ぶために接骨院で働き始めましたが、なんとなく予想していた通り収支バランスが絶望的に悪く、あっさりと家賃を3か月滞納。

住民税や国民健康保険も払えるはずがなく、50万近く支払いが滞りました。

親友の松本君の結婚式が終わったとき、全財産はたったの1900円

親友のご祝儀に1万円しか出せなかった時は、さすがに情けない気持ちでいっぱいでした。

 

そんなときでも自己啓発本を買ったり、友達にご飯をおごったりすることはやめませんでした。

メチャメチャ見栄っ張りなので、周りに「お金ねぇわ」なんて恥ずかしくて死んでも言えませんでした。28歳の時です。

 

1日17時間労働を2ヶ月続けた結果

そのころ感銘を受けた「大富豪アニキの教え」という本の影響で、どこまで長時間労働に耐えられるか試してみました。

  • 8〜16時までパチンコ
  • 17〜21時まで接骨院。
  • 22〜27時までホテルの客室マッサージ。

しかし、やったことすらないパチンコのバイトが辛すぎて、ある朝、店を素通りしてそのまま名古屋から京都へ逃亡しました。

それと同時に、ホテルの客室マッサージは過労で就労不能と判断されてクビになりました。

2つの仕事を数ヶ月で失いましたが、接骨院の給料だけでは生活できないため、再び職を探すことになりました。

このとき職を探すのは大変でしたが、17時間労働から解放された喜びは計り知れませんでした。

ここで17時間働くとぶっ倒れる法則を発見したおかげで、これ以降ブレーキとアクセルの調節がうまくできるようになりました。

つーわけで、20代のうちに「お酒の量の限界点」とセットで「働ける時間の限界点」も知っておくことを強くおすすめします。

参考記事:「大富豪アニキの教え」に従って1日17時間働いた激動の2ヶ月を振り返る。

 

 「止まない雨はない」はマジだった

捨てる神あれば拾う神あり

「せっかく持ってる国家資格活かしたら?」という友達の指摘を受け、ハローワークで見つけた会社で働くことにしました。

老人ホームへ訪問治療する会社ですが、このとき拾ってくれた社長には、家賃滞納の件などを洗いざらい話すことができました。

そして、給料を前借りさせてもらったり、社用車をプライベートで使わせてもらえたおかげで、久しぶりにフツーの人間の暮らしができるようになりました。

20時に仕事が終わることが信じられないほど嬉しくて、50万もの支払いを滞納していることを忘れそうになるほどでした。

この社長には今もお世話になっていて、自営業や不動産投資をしながら正社員として働かせてくれることに本当に感謝しています。

 

知らんうちに会社の給料を上回った

会社で働き始めて生活が安定した頃、自分の治療院を立ち上げ、ダブルで働きました。ダブルといっても、せいぜい9時から21時程度のこと。

これまで17時間の重労働を経験済みのぼくにとっては楽勝でした。そして、29歳になる頃には、自営業の収入が会社の給料を上回っていました。

この頃、空き時間を見つけてはやりたいリスト100を書くようになりました。

今思えば、そうやって気持ちを鼓舞しなければ、会社の給料で満足してしまいそうな自分が怖かったのだと思います。

結果的に会社の給料を上回ることができたのは、このリストを好きなように書きなぐっていたおかげです。

このリストの項目を眺めれば眺めるほど、どう考えても今頑張らないと次に進めないなと強く自覚させられたのです。

参考記事:【残り90個】やりたいこと100リスト

 

ありあまるお金の行き先

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▲記念すべき1軒目の物件を280万で購入。問題ありまくりの物件だったが、リフォーム屋のおっさんに全面的に協力してもらう。現在55,000円で賃貸中。

50万近くあった家賃や税金の滞納分を完済した時、ずっと頭上を覆っていた厚い雲が青空に変わっていく感覚を味わいました。

背負っている荷物は、下ろした時に初めてその重みに気がつくことを知りました。一ヶ月の収入から、諸々の支払いや自由に使える小遣いを差し引いても、毎月30万ほどお金が余るようになりました。

(なんか、カネの話ばかりですんません。)

 

ここで、今まで散々支払いを滞らせてきた実体験が活きました。

「もうあんなことを繰り返したくない」という反動で、ムチャクチャお金の勉強をして、徹底的に支出管理をすることにしたのです。

エクセルで手作りした支出管理帳は、このときから2年間欠かすことなく記帳し続けています。こんな几帳面にお金を扱うようになったのは生まれて初めてのことでした。

そして、そのお金を、一番に健康、二番に不動産、三番に治療スキルアップに投資しました。健康を仕事にしているがゆえ、優先的に健康へ投資できるお金ができたことは幸せでした。

 

ぼくは19歳のときに初めて金持ち父さん貧乏父さんという本を読んで以来、不動産投資に興味を持ち続けてきました。

でも、これまで人生は自分ひとりが生きるのに精一杯のお金しかなく、とても不動産投資を始められるだけの資金はありませんでした。

だから、給料を超える収入を自営業で得られるようになったこのとき、迷わずに不動産投資への勉強に時間とお金を惜しみなく投入できたのです。

やっぱり、一度どん底に落ちたときに生じる反動のエネルギーってスゴイなぁと思いました。「このままじゃイヤだ!」って気持ちの源泉って、やっぱり過去の失敗経験に宿るんですよね。

 

・・・と思える前向きなメンタルがなにより武器だったのかもしれません(笑)

 

秘境をめぐる治療家の誕生

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 ぼくはやりたいこと100リストの中に「自分のメディアを持つ」という項目がありました。

もともと文章を書くことが好きだったこと、内向的なクセに目立ちたがりなこと、そしてこれからは個人の時代になることを確信していたことが重なり、30歳になってすぐにこのブログを開設しました。

ここでまた、やりたいことリストの項目を一つ叶えることができたのです。

そして、大好きな旅と治療の仕事をミックスさせたことがやりたくて、治療家のいない集落や離島へ出張治療するサービスを始めました。

参考記事:1日20人秘境出張治療のお問い合わせはコチラへお願いします。

 

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もともとイチバン最初は、

「震災や津波で、形ある財産なんて一瞬で無くなっちゃうんだな。もし名古屋で地震が起きて住む場所がなくなった時に、誰か住む家提供してくんないかなぁ。」

という下心満載で思いついた企画でした。

そしたら、第一弾で出張させてもらった広島県の百島で、島民のおばあちゃんが「空家があるからそこで治療院やりな!」と声をかけてくれました。

まさか第一弾にして夢が叶うとは思いませんでしたが、これからも下心満載で秘境への出張を続けたいと思っています。

参考記事:【百島】秘境をめぐる治療家がサクッと離島の空き家をゲットしてきた。

 

同時並行的に複数の活動をこなす“パラレルキャリア”を実践

今はまだ正社員として働いているし、夕方以降の自営業もフル稼働しています。

だからブログを書いたり、投資用の物件を見学したり、秘境へ出張することは、どうしても後回しになってしまいます。

今後は会社の出勤日数を減らしながら、物件見学や秘境出張にかける時間を増やしていくつもりです。これらの活動バランスを絶妙に調整しながら、パラレルキャリアを実践し続けますよ!

なんせ、ひとつのことに集中できないタチだからね・・・

 

そして、一緒に秘境エリアで仕事ができる仲間や、不動産投資仲間を作って、新時代の生き方・働き方を貫いていきます。

それらの根底にあるのは、うまくいっているときも辛いときも、自分を信じて貫いてきた“好きも嫌いも我慢しない”というマインド。

我慢しない選択肢を取り続けたその先にあったのが、あのドラッカーが提唱していた“パラレルキャリア”という働き方だったのです。

名刺に書くとすれば、ぼくの肩書きは「会社員、治療家、不動産投資家、ブロガー」です。わけのわからんことになります。でもそれでオッケー!

いくつになっても遊び続けることを妥協せず、死ぬまで「いい年こいて・・・」と周囲にバカにされるオトナを目指します。

 

おわりに

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▲秘境出張第二弾となる北海道洞爺湖町にて。

ぼくの20代は、見ての通り、上下幅の激しい不安定な10年間でした。

でも、「上」の時期の自分と、「下」の時期の自分を、幅広く知ることができたのは、何物にも代えがたい収穫でした。

それによって、

「合う/合わない」

「好き/嫌い」

「得意/苦手」

をすぐに判断する能力を身につけることができたからです。

ぼくはこれから、たとえ全財産が100円になっても、ツイてない日々が続いても、せいぜい桃鉄をプレイしているくらいの熱で、冗談半分に生きていけるでしょう。

どんな辛いことがあっても、20代のどこかで積んだ経験のおかげで、きっと乗り越えられるはずだから。

 

上司に情なんてない。

いつでも自分の人生に厚い情でありたい。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

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